栃木県大田原市神田(かんだ)にある那須神田城跡は、土塁と堀で四角く囲んだだけの、たった一つの郭でできた城です。天守も石垣もなく、曲輪が幾重にも折り重なる造りでもありません。それでも国の史跡に指定されているのは、東国の武士がはじめて構えた「館」の形が、ほとんど崩れないまま残っているからです。那須氏の初期の居城と伝えられ、屋島の戦いで扇の的を射た那須与一も、ここで生まれたと伝わります。
- 国指定史跡。昭和五十九年(一九八四)七月六日の指定
- 土塁と堀で囲んだ単郭の居館跡。郭の内側は東西六十六メートル、南北百十七メートル
- 土塁は基底部の幅約十メートル、高さ五〜六メートル、上面の幅約二メートル
- 那須与一は嘉応元年(一一六九)にこの地で生まれたと伝えられる
- 築城年は特定されていない。現地の案内板は三つの年を並べて示している
- 那須神社(金丸八幡宮):与一が祈ったと伝わる社と、重要文化財の本殿・楼門

土塁の上を道が通る。手前の低みが堀の跡で、水がたまっている。高さ五メートル級の土手が、田んぼの中に四角く残る
那須神田城跡はどんな城か
城というより、四角い土手でぐるりと囲んだ屋敷、と言ったほうが近い姿です。山を削ってもいないし、石を積んでもいない。田んぼの中の平地に、土を盛って堀を掘っただけ。これを城郭の用語では単郭(たんかく)の方形居館と呼びます。
戦国時代の城を見慣れた目には物足りなく映るかもしれません。しかしこの形こそ、鎌倉時代前後の武士が住んだ館の標準形でした。戦うための城ではなく、住むための屋敷に最低限の防御をつけたもの。山をまるごと刻んだ皆川城のような後の時代の山城とは、設計思想がまるで違います。
現地の栃木県教育委員会の案内板は、この遺跡の値打ちをこう説明しています。東国の初期武士団の背景を知るうえで重要である、と。派手さがないことが、そのまま価値になっている城です。
那須与一は、ここで生まれたと伝わる
大田原市が立てた案内板には、こう書かれています。源平の屋島の合戦で扇の的を射落とした那須与一宗隆は、嘉応元年(一一六九)、那須資隆の十一男としてこの地で生まれたと伝えられている、と。
与一が実在したかどうか、生年がいつかは、史料の上でははっきりしません。『平家物語』に描かれた場面が広く知られている一方で、同時代の記録に那須与一の名を確実にたどれるわけではないからです。ですから案内板も「伝えられている」という書き方をしています。現地はその慎重さを守っており、断定はしていません。
ただ、那須氏という一族がこの地を本拠にしていたことは確かです。のちに烏山城を本城として那須七騎を束ね、戦国末期に改易されるまで続きました。与一の伝承は、その一族の出発点がここだったという記憶と重なっています。
築城年がわからない城
この城の面白いところは、いつ建てられたのかが確定していないことです。しかも現地の案内板が、そのことを隠していません。

大田原市の案内板。那須氏の祖が本拠の「那須の城」を「神田の城」と名付けたのが始まりという『那須記』の伝承を伝える
そもそも「神田城」という名も、『那須記』によれば、那須の守護を賜った須藤権守貞信が本拠を「神田の城」と名付けたことに由来する、と案内板は書いています。守護という職は本来もっと後の時代のものですから、これも伝承の言葉づかいとして受け取るのが妥当でしょう。
数字で見る縄張り
案内板には寸法が細かく出ています。数字で押さえると、この城の性格がよくわかります。
- 外周を含めた全体 南北百六十二メートル、東西百三十二メートル、総面積二万六七七四平方メートル
- 郭の内側 東西六十六メートル、南北百十七メートル、面積七七二五平方メートル
- 土塁 基底部の幅約十メートル、上面の幅約二メートル、高さ五〜六メートル
- 堀 幅約十メートルの箱堀

栃木県教育委員会の案内板。四角い郭と、それを囲む土塁・堀の平面図が載っている
郭の内側は七千七百平方メートルほど。学校の校庭ひとつぶんに届かない広さです。ここに主人の屋敷と、わずかな従者の建物が建っていたと考えられますが、建物の復元は発掘を経なければ難しい、と県の案内板は正直に書いています。同じ那須地方でも、近世まで使われ続けた大田原城とは規模も性格も別物です。
三隅か、四隅か ― 二枚の案内板が食い違う
現地には大田原市と栃木県教育委員会、二枚の案内板が立っています。並べて読むと、土塁の隅について説明が違っていることに気づきます。
大田原市の板は「土塁四隅には一メートル程の高まりをもち」と書く。栃木県の板は「北東隅を除いた三隅の土塁はひときわ高く築かれ堅固である」と書く。四隅なのか、三隅なのか。
どちらが正しいかを決める材料はここにはありません。ただ、隅を高く盛るという造りそのものは、平地の館で横矢を掛けるための工夫として理解できます。四角い土塁のままでは、外から取りついた敵を側面から射ることができません。隅を櫓台のように高くすれば、二方向の土塁の外側をまとめて見下ろせます。現地で土塁の上を歩くと、角にさしかかったところで足もとが一段持ち上がるのがわかります。
東と西の堀は、いまは水田になっている
堀は四方を巡っていましたが、残っているのは南と北だけです。東側と西側の堀は埋め立てられ、いまは水田になっています。

土塁のすぐ外に広がる田。かつての堀は埋められ、耕地に変わった
これは荒れたというより、使われ続けたということです。幅十メートル、深さのある箱堀は、水を張れば良い田になります。城が役目を終えたあと、土地は次の用途に移された。残った南北の堀と、田になった東西の堀。その差を歩いて確かめられるのが、この城跡の見どころのひとつです。
出入口は二か所と伝わります。東側土塁の中央が切れているところが大門跡、南側土塁の中央にも出入口の痕跡がある、と案内板は記します。
那須氏はなぜここを出たのか
那須氏はやがてこの館を離れ、稲積城を経て烏山城へ本拠を移します。理由を直接語る史料はありませんが、城の形そのものが答えを示しています。
平地の四角い館は、周囲を囲まれれば逃げ場がありません。土塁が五メートルあっても、平地では見晴らしが効かず、敵の接近を遠くから知ることもできない。南北朝から戦国へと戦いが長期化していくと、武士たちは山へ登りました。烏山城は標高二〇〇メートル級の丘陵に築かれた山城で、尾根づたいに曲輪を連ねています。防御の考え方がまったく変わっているのです。
同じ栃木県内では、喜連川城のように中世は山に城を構え、江戸時代になって山を下りた例もあります。平地から山へ、そして山から再び平地へ。城の立地は、その時代に何を恐れていたかを映します。
見どころとアクセス
公園として整備された城跡ではありません。土塁の上に細い道が通り、内側は畑と草地、一角に赤い鳥居と小さな祠があります。案内板が二枚あるほかは、標柱と道だけです。

郭の内側に鳥居と祠。屋敷があった場所は、いまは静かな一角になっている
歩くなら土塁の上を一周するのがおすすめです。四角い城の四つの角をすべて曲がることになるので、隅の高まりも、南北に残る堀も、東西の田になった堀跡も、ひと続きの体験として確かめられます。所要は二十分ほど。足もとは土のままなので、雨のあとは滑ります。
所在地は栃木県大田原市神田。周辺は水田地帯で、駐車場は整っていません。路肩に寄せる場合は農作業の妨げにならないよう注意が必要です。





