- お城・城跡, 北陸, 戦国時代, 日本100名城
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【城名】
金沢城
【城の説明】
金沢城は石川県金沢市にあった城である。江戸時代には加賀藩前田家の居城であり、現在の城址は国の史跡に指定されている。
戦国時代、この地域には浄土真宗の寺院である「尾山御坊」が存在しており、加賀一向一揆の拠点であった。寺院ではあったが石垣や堀を巡らし、大阪石山本願寺同様に要塞とも言えるものであった。
織田信長が加賀の一向一揆を攻め落とし、この地に「佐久間盛政」を配して金沢城を築かせた。この城は金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた城であった。
その後、信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山崎の戦いにて明智光秀を討ち、主君の仇討を果たす。残された信長の重臣達は後継者争いを始め、信長の嫡孫を擁護した羽柴秀吉が主導権を握ることになる。しかし、この状況を快く思わない柴田勝家や滝川一益らは秀吉軍と「賤ヶ岳の戦い」を繰り広げ敗れてしまう。
この戦を境に羽柴秀吉が名実ともに信長の後継者として台頭することになる。金沢城主であった「佐久間盛政」は柴田勝家の与力であったため、秀吉により滅ぼされ、秀吉は金沢城を盟友でもあり「賤ヶ岳の戦い」では不戦の姿勢を取った「前田利家」に与えた。
利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。天正15年(1587年)には「バテレン追放令(キリスト教追放)」により明石城主を改易されたキリシタン大名「高山右近」が利家に客将として呼ばれ、金沢城の大改造を行った。
加賀藩五代藩主「前田綱紀」の時代には金沢城に付属した庭園「兼六園」を造らせた。その後、明治維新になるまで代々前田家が城主としてこの地をおさめることになる。金沢城址は明治以降、陸軍の軍事施設が置かれたため建物の一部を残して撤去された。
現在の金沢城は付属の庭園「兼六園」が日本三大庭園としてその名を全国に轟かせている。
※日本100名城35番
【金沢城・場所・アクセス】
〒920-0937 石川県金沢市丸の内1-1
【金沢城地図】
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