【藩名】
延岡藩
【説明】
「豊臣秀吉」の「九州征伐」後の天正15年(1587年)に、豊前国香春(福岡県田川郡香春町)周辺の領主「高橋元種」が延岡南部の松尾城5万石に封ぜられた延岡藩が立藩された。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において元種は、当初は西軍方であったが、九州南部の小領主である「秋月種長」「相良頼房」らと密謀し東軍へと寝返った。
これにより「徳川家康」から旧領を安堵された。慶長6年(1601年)、元種は県城(延岡城)を築城して松尾城より移り、以後明治維新までこの城が藩政の中心となった。慶長19年(1614年)、高橋家に変わり肥前国日野江藩より「有馬直純」が5万3000石で延岡に入封した。
元禄4年(1691年)、延岡藩主「有馬清純」は藩政の不備を幕府から咎められ一旦改易となり、改めて陣屋大名に格下げの上、越後国糸魚川藩5万石に転封となった。この後、譜代大名の「三浦明敬」が下野国壬生藩より2万3000石で入封するも、正徳2年(1712年)、明敬は三河国刈谷藩に転封となった。
この転封に伴い、三河国吉田藩より「牧野成央」が8万石で入封した。しかし、延享4年(1747年)、三方領知替えにより牧野氏は常陸国笠間藩に転封となり、陸奥国磐城平藩より「内藤政樹」が7万石で入封した。
以後、内藤氏が延岡を統治した。元治元年(1864年)の第1次長州征伐、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では幕府軍の一員として参戦した。第8代藩主「政挙」の時に幕末迎え、鳥羽・伏見の戦いでは大坂駐在の部隊が譜代藩としての立場上、旧幕府側に付いた。このため、戦いの後延岡藩は朝敵とされてしまうが、早い段階で熊本藩や薩摩藩を通じて謝罪し、藩主の謹慎100日の処分が下されたのみで済んだ。
本格的な戊辰戦争が勃発すると新政府軍に従い甲府城勤番など後方警備を命じられた。明治4年(1871年)、廃藩置県により延岡県となり、後に美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
【場所・アクセス・地図】
〒882-0813 宮崎県延岡市東本小路
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