佐賀藩/鍋島家35万7千石:鍋島直正(閑叟)幕末当時最新鋭の洋式軍を保持し上野戦争や函館五稜郭の戦いに参戦した佐賀藩(肥前藩)【幕末維新写真館】

佐賀藩/場所・アクセス・地図 鍋島家35万7千石:鍋島直正(閑叟)幕末当時最新鋭の洋式軍を保持し上野戦争や函館五稜郭の戦いに参戦した佐賀藩(肥前藩)【幕末維新写真館】

【藩名】
佐賀藩

【説明】
幕末の藩主「鍋島直正」は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、佐賀藩(肥前藩)は幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。

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慶応元年(1865年)には日本最初の実用蒸気船「凌風丸」を進水させ有明海内の要人輸送に活用している。長崎に海軍伝習所が作られると学生を派遣した。慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させ、藩の洋式軍に配備した。その他にも四斤砲の製造と実用化に成功し、後に品川台場に施された砲台にも利用された。

軍政改革について、文久3年(1862年)9月・10月に従来の体制を解体して洋式銃砲隊の編成を行った。第二次長州戦争では筑前まで出陣したが実戦を体験することはなかった。慶応2年(1866年)から3年(1867年)にかけて兵力の増強を図っているが、長州藩が農民・商人・町人を中心とした隊を編成したのに対し、佐賀藩では藩士の次男三男からの増強を図り、家臣団による統制力を保ったまま軍事力を高めた。

※天守台跡
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当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては藩主「直正(閑叟)」の意向で終始静観する姿勢をを崩さなかった。時世を静観する姿勢は「大政奉還」「王政復古」まで続いた。

また、他藩士との交流を禁じ国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし、慶応4年(1867年)には藩主「直大」が新政府から北陸道先鋒に任命され、佐賀藩兵はこれを機に「戊辰戦争」に参加することんなる。ほどなく江戸における「上野戦争(彰義隊の戦い)」や函館五稜郭まで戦い、明治政府に多数の人物が登用された。

※アームストロング砲
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明治政府では薩摩藩、長州藩、土佐藩に続き多くの人材を輩出し、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民、島義勇らが活躍した。また田中久重等、他藩の有能な人材も積極的に重用し日本の近代化に貢献した。明治2年(1869年)に版籍奉還で「鍋島直大」は佐賀藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で佐賀藩は廃藩となり佐賀県となった。

【場所・アクセス・地図】
〒840-0041 佐賀県佐賀市城内2-18-1










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