【藩名】
対馬府中藩(厳原藩)
【説明】
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定に際して宗氏は豊臣政権への臣従を決め、本領安堵された。天正18年(1590年)には、当主「宗義智」が従四位下侍従・対馬守に任ぜられている。
江戸時代後期に入ると、周辺海域に欧米の船が出没するようになり、安政5年(1858年)には沿岸の防備を重要視した幕府が朝鮮貿易を幕府直轄とし、宗氏を河内国に10万石で転封する計画を立てた。これには宗氏家臣のなかにも移封を唱えるものがあった。しかし、宗氏は中世以来の対馬領主という誇りがあり、家臣の多くもこの地に根ざした生活を保っていたため、転封計画は成功しなかった。
万延2年(1861年)、ロシアの軍艦「ポサドニック号」が浅茅湾に投錨し、イギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留し、第15代藩主「宗義和」に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、幕府外国奉行の「小栗忠順」が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦は退去した。
これを「対馬事件」あるいは「ポサドニック号事件」と呼んでいる。元治元年(1864年)の「第一次長州征伐」で長州藩が敗北すると、藩主「義達」の伯父にあたる「勝井員周」が保守俗論党(佐幕派)と共にクーデターを起こし、藩の主導権を握っていた義党(尊王攘夷派)の家老「大浦教之助」ら100余名を処刑した。しかし慶応元年(1865年)に勝井ら保守俗論党も義党の残党によって暗殺されるなど、若年の藩主の下で混乱が続いた。
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では、早くから新政府に与して大坂まで軍を進めた。明治2年(1869年)、宗義達は版籍を奉還し新藩制により厳原藩と改称され、厳原藩知事となった。同時に「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県により厳原県となり、その後、伊万里県へ編入された。明治5年(1872年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに三潴県に合併され、最終的には長崎県の管轄となった。
【場所・アクセス・地図】
〒817-0015 長崎県対馬市厳原町西里200
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