【藩名】
伊予松山藩
【説明】
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」にて東軍徳川氏に味方した「加藤嘉明」が20万石で立藩した。寛永4年(1627年)、陸奥国会津藩42万石に加転封される。これに伴い出羽国上山藩より「蒲生忠知」が24万石で入封するが、寛永11年(1634年)に嗣子無く死去のため蒲生氏は断絶した。
寛永12年(1635年)、伊勢国桑名藩より「松平定行」が15万石で入封し明治維新まで続くことになる。元禄16年(1703年)2月には、幕府から江戸の伊予松山藩邸で預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹したことで知られる。
幕末になると、第13代藩主「松平勝成」は、安政6年(1859年)に「勝海舟」の設計により、外国船に対処するため武蔵国神奈川(横浜市神奈川区)に砲台の築造を始め神奈川付近の警備を行った。
幕末の動乱期は親藩大名のため幕府側につき、長州征伐では先鋒を任されて出兵する。この戦で藩の財政の極度に悪化した。この時の戦で占領した周防大島において住民への略奪・暴行・虐殺行為を行ったことが明治期に長州藩閥から冷遇される要因となったと伝わる。
徳川慶喜による大政奉還後の慶応4年(1868年)、「鳥羽・伏見の戦い」では藩主「定昭」と藩兵は梅田方面の警備に当たっていたが、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知り帰国する。この戦いにより新政府から朝敵として追討軍が編成された。松山城内では先代藩主「松平勝成」の恭順論と「定昭」の徹底抗戦論が対立するが、最終的には戦わずして城を明け渡し土佐藩の占領下に置かれた。
松山藩は財政難の中、15万両を朝廷に献上し、藩主「定昭」は蟄居して先代藩主で恭順派だった「勝成」を再度藩主に据えることや、家老や重臣の蟄居・更迭などを条件に赦され、5月22日に松山城は返還された。また、その後、明治政府より徳川親藩で使用する「松平」姓から旧姓である「久松」姓に復するよう命が下った。 明治4年(1871年)廃藩置県により松山県となり、石鉄県を経て愛媛県に編入された。
【場所・アクセス・地図】
〒790-0008 愛媛県松山市丸之内1
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