【藩名】
備後福山藩
【説明】
元治元年(1864年)、福山藩は幕府に長州征討への参加を命じられ、藩主「阿部正方」は藩兵6000人を率いて広島に進軍するも幕府と長州藩との間に和睦が成立して軍を引き返した。慶応元年(1866年)には「第二次長州征伐」に参加するため山陰を目指して出陣した。そして翌年6月17日、福山藩兵は石見国益田において長州藩の「大村益次郎」率いる長州軍と戦闘を繰り広げ敗走する。
その後、幕府側の諸藩は敗走を重ねそれぞれが撤退を開始したため福山藩も福山城へと退陣した。これらの戦によって福山藩の財政は急激に悪化し、さらに戊辰戦争の戦いで更に悪化し廃藩置県までに破綻状態に陥ることになる。
最後の将軍「徳川慶喜」による「大政奉還」が表明されると、慶応4年(1868年)1月9日、「杉孫七郎」率いる長州軍によって福山城は攻撃を受けることになった。今津(松永町)に進駐した長州軍は部隊を三手に分け北、西、南からそれぞれに福山を目指した。これに対し福山藩は恭順の意を示すが城下に迫った長州軍は北本庄の円照寺を占拠し、大砲による砲撃を始め本格的な攻城を開始しようとする。
この時藩主「阿部正方」は病死しており、福山藩の実質的な首脳であった「関藤藤陰」や家老「三浦義建」の奔走により、福山藩の恭順をようやく認め軍を撤退した。こうして福山は戦火から免れることになった。
明治元年(1868年)になると新政府から伊予国松山、播磨国西宮、大阪府天保山へ次々と出兵を命じられる。こうした中、広島藩から藩主「浅野長勲」の弟「正桓」が養子として10代福山藩主に迎えられた。正桓は藩主就任直後に蝦夷箱館への出兵を命じられ、藩兵約500人が新政府軍に加わり箱館戦争で戦った。しかし、福山藩兵は「七重村の戦い」で榎本軍に撃退され青森まで敗走する。
その後再び戦列に加わり、箱館総攻撃では「千代ヶ岡砲台」を攻略した。この戦による福山藩兵の損害は死者25人、負傷者28人であった。明治2年(1869年)、正桓は「版籍奉還」により福山藩知事に就任し、明治4年(1871年)には「廃藩置県」により福山県となった。ここに備後福山藩は消滅する。
その後、強引な県名や県域の変更が繰り返され、最終的には明治9年(1876年)に備後地域の旧福山藩領が広島県へと移管されることになった。
【場所・アクセス・地図】
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