岡山藩/池田家31万5千石:池田章政 新政府軍に与し関東・東北・函館戦争まで藩兵を派遣した岡山藩【幕末維新写真館】

岡山藩/場所・アクセス・地図 池田家31万5千石:池田章政 新政府軍に与し関東・東北・函館戦争まで藩兵を派遣した岡山藩【幕末維新写真館】

【藩名】
岡山藩

【説明】
寛永9年(1632年)、「池田忠雄」の没後、嫡子「光仲」は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして鳥取に国替えとなった。代わって従兄弟の「池田光政」が鳥取より31万5000石で岡山に入封し、以後明治まで光政の家系が池田家宗家として岡山藩を治めることとなった。

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光政は水戸藩主「徳川光圀」、会津藩主「保科正之」と並び江戸初期の三名君として称されている。光政は陽明学者「熊沢蕃山」を登用し、寛文9年(1669年)、全国に先駆けて藩校「岡山学校」を開校した。寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」も開いた。また「津田永忠」を登用し干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。

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光政の子で次の藩主「綱政」は元禄13年(1700年)に水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」と共に日本三名園とされる大名庭園「後楽園」を完成させている。幕末に藩主となった「池田茂政」は、水戸藩主「徳川斉昭」の九男で、鳥取藩「池田慶徳」や最後の将軍「徳川慶喜」の弟であった。このためか佐幕・勤皇の両方の姿勢をとり続けた。しかし「戊辰戦争」が勃発すると茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主「池田政詮(章政)」が藩主となり、岡山藩は新政府軍に与して倒幕の旗幟を鮮明にした。

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茂政が隠居した理由は、新政府より実の兄「徳川慶喜」の追討の命を受けたためと言われている。一方、鴨方藩主には章政の長男「政保」がついた。章政は「戊辰戦争」においては新政府軍に与して藩兵を関東・奥羽・函館にまで送った。そして、明治2年(1869年)の版籍奉還により岡山藩知事となる。

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明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。

【場所・アクセス・地図】
〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1










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