【藩名】
新宮藩(紀州藩附家老)
【説明】
新宮の地は戦国時代、豊臣秀吉の家臣「堀内氏善」が領していたが、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で石田三成率いる西軍に与したために没落する。その後、紀伊国に封じられた「浅野幸長」の家臣「浅野忠長」が新宮を領していたが、浅野氏が安芸広島藩へ移封されると、「徳川頼宣」の附家老として「水野重央」が紀伊国新宮に3万5000石を与えられた。
身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。水野家は代々家老として藩政に重きを成した。第9代当主「水野忠央」は、後に紀州藩主から第14代将軍となった「徳川家茂」を補佐し、幕末の大老「井伊直弼」と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走した。
慶応2年(1866年)、「第二次長州征伐」では幕府軍の先鋒を務め、各地で幕府軍が敗れる中で、忠幹が率いる軍勢だけは安芸国佐伯郡大野村(広島県廿日市市)まで進撃するという大戦果を挙げた。幕府軍が撤退する中では殿軍を務め、長州藩の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃せず「鬼水野」と呼ばれて畏怖されたと伝わる。
慶応4年(1868年)1月に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」で徳川旧幕府軍が敗戦すると、敗残兵を藩内に受け入れていた紀州藩は新政府から嫌疑を受けたため、附家老の忠幹が弁明のために上洛し、1月14日に「3ヶ条の弁明」を提出している。同年1月24日、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5,000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。
明治2年(1869年)に版籍奉還が行われると、新宮藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により免官。新宮藩が正式に独立した藩として存在したのは明治維新後の数年に過ぎなかった。
【場所・アクセス・地図】
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