【藩名】
畑村藩(大垣新田藩)
【説明】
元禄元年(1688年)7月、「戸田氏利」の後を継いだ「戸田氏成」のときに兄の戸田氏定から美濃国内の新田3000石を分与され、さらに養父の氏利の所領と渥美郡内の新田分を合わせて1万石となったため、大垣新田藩が立藩した。
そして藩庁を三河国渥美郡畑村に置いた。このため畑村藩とも呼ばれている。その後氏成は、元禄14年(1701年)、赤穂藩主「浅野長矩」の事件に連座して出仕を止められている。
氏成の後を継いだ「戸田氏房」は大番頭・奏者番・西丸若年寄を歴任し、その後も藩主は「戸田氏之」「戸田氏養」と続いた。慶応4年(1868年)3月19日、幕末の藩主「戸田氏良」は上洛し、恭順の姿勢を示した。「戊辰戦争」では新政府に従い「北越戦争」にも出兵した。明治2年(1869年)6月2日、新政府から功績として2000両を賜った。
明治2年(1869年)、氏良は「版籍奉還」した後の同年5月、藩庁を美濃国大野郡野村に移したため、大垣新田藩は野村藩と改名し大垣新田藩(畑村藩)は廃藩となった。
【場所・アクセス・地図】
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