【藩名】
刈谷藩
【説明】
刈谷藩主「稲垣重富」は元禄15年(1702年)9月7日に上総大多喜藩へ移封される。その後、「阿部正春」が1万6000石で入封するが、第2代藩主「阿部正鎮」の時に上総佐貫藩へ移封される。越後村上藩より「本多忠良」が5万石で入封するが、正徳2年(1712年)7月12日に下総古河藩へ移封。
日向延岡藩より「三浦明敬」が2万3000石で入封するも、第3代藩主「三浦義理」の時に三河西尾藩へ移封と、なかなか藩主家が定着しなかった。三浦義理と入れ替わりで「土井利信」が2万3000石で入ることで、ようやく土井氏による統治が定着した。
幕末の藩主「土井利教」は、慶応3年(1867年)から財政再建を中心とした藩政改革に着手した。慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」に際しては、藩内の佐幕派と尊皇派で対立が生じたが、尊皇派の藩士18人が佐幕派の家老3人を暗殺し、藩内の意見は尊皇でまとまった。藩主「利教」は急遽上洛して明治天皇に拝謁した。そして、新政府から駿府城の守備を命じられた使命を全うした。
明治2年(1869年)の「版籍奉還」で、「土井利教」は刈谷藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の「廃藩置県」で刈谷藩は廃藩となり、刈谷県を経て額田県に合併された。
【場所・アクセス・地図】
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