- 全藩, 北海道・東北地方
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【藩名】
久保田藩(秋田藩)
【説明】
明治維新では、当初「奥羽越列藩同盟」に参加していたが、平田篤胤の思想をなぞる尊攘派が形成されていたこともあり、仙台藩の使者を斬った上で途中から「新政府軍」に寝返った。尊攘派の中心は「吉川忠行」忠安親子であり、忠安は雷風義塾に学んでいた。
忠安は『開花策論』において尊皇思想を説き12代藩主「佐竹義堯」がこれを容れたための、一藩での官軍参加となった。。これにより「奥羽越列藩同盟軍」の攻撃を受けたものの、新政府が派遣した佐賀藩兵の助けもあって持ちこたえた。(秋田戦争)
奥羽越列藩同盟軍を敵としたことで領地の大半が戦火に晒され、しかも新政府軍に与して奥羽越列藩同盟軍に攻撃された周辺諸藩の藩主や藩士、それに西国諸藩の援軍らの費用をすべて久保田藩が負担したため、藩財政を締め上げた。戦後に政府から与えられた賞典は戦費・戦災にまったく見合わない少額に過ぎず、借財に耐えかねた久保田藩は加護山製錬所での貨幣鋳造で凌ごうとしたが、明治2年5月(1869年6月)に新政府は各藩独自の藩札発行・貨幣鋳造を禁止した。
久保田藩は禁止以後も密造を続けていたとして政府で問題視され、明治4年末に元勘定奉行の佐藤時之助・大山茂治右衛門ら11人の大量処罰が行われた。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩主「佐竹義堯」は久保田藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」により久保田藩は秋田県となった。
【久保田藩(秋田藩)・場所・アクセス】
〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1-1
【久保田藩(秋田藩)地図】
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