【史跡名】
母成峠古戦場跡
【母成峠古戦場跡の説明】
慶応4年(1868年)、二本松城を落とした新政府軍は次の目標を会津藩に定めた。一方会津藩は広大な領内に兵力を分散する必要があり、どこに主力部隊を配置するかが勝敗の鍵となっていた。
会津藩では日光口(会津西街道)と白河口(勢至堂峠)からの攻撃を予測し、主力を配置していた。しかし、板垣退助と伊地知正治が率いる新政府軍は最も険しい峠「母成峠」から会津領へ侵入した。
母成峠を守備していたのは会津藩兵と大鳥圭介の伝習隊、それに土方歳三の新選組など約800、一方新政府軍は2,200の軍勢で攻め寄せた。最新式装備の新政府軍の猛攻に母成峠守備兵はたった1日で崩壊し、新政府軍は猪苗代城まで進撃、さらに「十六橋」「戸ノ口原」を超えてついに「滝沢本陣」にまで迫った。
会津藩主「松平容保」は陣頭指揮を執るため滝沢本陣まで出陣していたが、新政府軍の攻撃があまり早く、防ぎきれぬと判断し会津城下へ退き籠城戦の準備をした。会津兵は「猪苗代城」での籠城をあきらめ、さらに「十六橋の戦い」「戸ノ口原の戦い」でも破れ各地で死傷者が続出した。
その後、会津藩は約一ヶ月にわたる籠城戦を続けるが最後は新政府軍に無条件降伏を申し入れた。「母成峠の戦い」の敗戦から一挙に城下までの進撃を許してしまったことで会津攻防戦のすべてが決まったと言っても過言ではない。現在の「母成峠古戦場跡」には土塁のほか、戦没者を弔う石碑が建立されている。
【母成峠古戦場跡・場所・アクセス】
〒969-2752 福島県耶麻郡猪苗代町蚕養
【母成峠古戦場跡地図】
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