霧山城(多気城):北畠具教が大河内城へ拠点を移すまで北畠氏の本城だった霧山城【お城特集 日本の歴史】

霧山城(多気城)/アクセス・地図・場所 北畠具教が大河内城へ拠点を移すまで北畠氏の本城だった霧山城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
霧山城(多気城)

【霧山城(多気城)の説明】
霧山城(多気城)は現在の三重県津市美杉町上多気にあったの山城である。
伊勢国司の北畠氏の本拠地で1kmほど南東には多気御所(館)があり、平時は御所に住み有事には霧山城に拠っていたと考えられている。

霧山城(多気城)/アクセス・地図・場所 北畠具教が大河内城へ拠点を移すまで北畠氏の本城だった霧山城【お城特集 日本の歴史】

南北朝時代の当主「北畠顕能」は南朝方として北朝軍と闘いを繰り広げ、平地の城が次々と落城したことを受けて興国3年(1342年)、防衛能力の高い「霧山城」を築いた。その後、ほどなくして「阿坂城」を築いて本城とした。

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戦国時代に入ると尾張の織田信長からの侵略を受けて、北伊勢は織田信長の家臣「滝川一益」によって統一された。これを機に霧山城の次に要害とされた「大河内城」へ拠点を移し、霧山城には城代として一族の「北畠政成」を配した。

織田信長の攻撃に対して「北畠具教・具房」親子は大河内城へ籠城し、50日にも及び耐え抜いたが信長の二男「信雄」を養子にすることでついに降伏した。天正3年(1575年)、信長は具房を隠居させ、信雄を大河内城から「田丸城」へ移した。

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そして翌天正4年(1576年)、信長の命により「多気御所」は織田勢により攻撃され具教・具房親子は殺害された。その直後、霧山城にも羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信らの軍勢が押し寄せ城代「北畠政成」は自刃して果てた。

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この一連の戦により「霧山城」は廃城となった。現在の城跡は日本の史跡に指定され堀切・土塁、郭などが残されている。また、「多気御所」の発掘も行われている。






【霧山城(多気城)・場所・アクセス】
〒515-3421 三重県津市美杉町八知

【霧山城(多気城)地図】



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