【城名】
宝満城
【宝満城の説明】
宝満城は福岡県太宰府市大字北谷の宝満山山頂に築かれた山城である。天文年間に大友家の重臣「高橋鑑種」によって築城されたとされている。
鑑種は「大友宗麟」が大友家当主の時に離反し毛利家へと寝返った。毛利家は九州にまで攻め込んできたが山陰地方に尼子氏の残党が攻め寄せると九州からの軍を撤退。鑑種は孤立し再び大友氏に降った。
しかし、高橋家の当主の座を剥奪され、代わりに吉弘鑑理の子の「高橋鎮種(高橋紹運)」が高橋家を継いだ。紹運は嫡男「宗茂」を立花家へ養子に送りこみ、次男「統増」に高橋家を継がせた。
天正14年(1586年)、島津義久・義弘兄弟が九州統一を目指して北上してくると立花宗茂は立花山城へ、統増が宝満城へ、紹運は「岩屋城」へそれぞれ籠城した。
最前線の岩屋城では城主「紹運」以下全員が玉砕し、次いで後方の「宝満城」も開城・降伏した。宝満城主である「高橋統増」は攻撃軍の大将「島津忠長」に騙され捕縛されたあげく島津本国へと送られた。(のちに解放されている)
紹運が岩屋城の籠城戦で時間を稼いだおかげで、嫡男宗茂の立花山城は島津軍の攻撃を辛くも持ちこたえ、豊臣秀吉の九州征伐軍の来援を得ることが出来た。
同年、島津義久・義弘兄弟は薩摩・大隅まで追い込まれ、ついに秀吉の軍門に降っている。宝満城は島津軍の攻撃により落城した際、廃城となったようである。現在、その遺構として石垣や石段などが残されているのみである。
【宝満城・場所・アクセス】
福岡県太宰府市大字北谷
【宝満城地図】
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