【城名】
長岡城
【長岡城の説明】
長岡城は新潟県長岡市にあった平城である。
戦国時代前期に越後国守護の長尾氏の一族が「蔵王堂城」を築いたことに始まる。
長尾景信が「御館の乱(謙信の後継者争い)」で戦死すると上杉景勝が直接支配する領地となる。1598年に秀吉の命により「上杉景勝」が会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟「堀親良」が4万石を与えられて蔵王堂城主となる。
しかし、徳川家康が天下を統一したあとの1610年、堀家は継嗣問題で減封され徳川家康の6男「松平忠輝」が越後を拝領し蔵王堂城もその支配下に治まる。1616年、家康と豊臣秀頼との間で大坂の陣が勃発すると「松平忠輝」はこの戦の不始末から除封・改易されてしまう。
一方、蔵王堂城には再び堀家(堀直寄)が8万石にて入封した。直寄は「蔵王堂城」が信濃川の洪水に弱いことから、信濃川から少し離れた長岡の地に新しく城を築き城下町を移して長岡藩を樹立する。1618年には堀直寄は越後村上に転封され、かわって譜代大名「牧野忠成」が6万千石にて城主に任命される。
牧野氏は越後国にて徳川家譜代大名として重要な役割が与えられ、その後加増され7万4千石となる。明治維新まで牧野氏が代々この地を治めることになるが、幕末時の長岡藩家老「河井継之助」は薩摩藩・長州藩からなる新政府軍に徹底抗戦を試み、信濃川に対峙して戦闘を繰り広げた。
しかし、長州藩の軍監「山形有朋」に奇襲攻撃を受け長岡城は落城し、長岡城も焼失してしまう。長岡藩は明治元年2万4千石への減封により家名存続をゆるされた。「河井継之助」は最新式の軍整備により良く戦ったが最後は敗れ、会津へ逃れる途中に負傷した傷が悪化し亡くなった。
現在の長岡城跡地には長岡駅が建設されおり、遺構はあまり残っていないが近くに「長岡市郷土史料館」が長岡城の石垣を利用して建っている。
【長岡城・場所・アクセス】
〒940-0062 新潟県長岡市大手通1
【長岡城地図】
コメント
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天守閣のあるお城の写真は「長岡市郷土資料館」ですが、これは長岡駅の近くではなく「悠久山」という長岡市郊外の山にある建物です。GoogleMapの「長岡城址」にこのお城の形の建物はありませんのでお気を付けください。