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加藤清正:羽柴秀吉の小姓から一躍肥後一国の大大名へとのし上がった加藤清正
加藤清正は羽柴秀吉が長浜城主だった頃に召抱えられ、その後「賤ヶ岳の戦い」では「七本槍」の一人に数えられ、さらに数々の武功をあげて肥後一国の大大名にまでのし上がった戦国武将である。
幼少のころに父を亡くし、母親が秀吉の生母大政所の遠戚でもあったことから、その縁を頼って召抱えられた。
当時の知行は170石で、秀吉の遠戚でもあり将来を期待された清正は近江の名門「山崎片家」の娘を正室として迎える。
主君の秀吉が中国地方攻略の担当官に任命されると清正もこれに従い、冠山城攻めでは城への一番乗りを果たして奮闘しさらに120石を与えられた。
秀吉の主君「織田信長」が明智光秀により討たれると中国大返しに加わり、山崎の戦いでも奮闘した。
その翌年には同じ織田家の重臣「柴田勝家」との間で「賤ヶ岳の戦い」が勃発し、この戦で敵将「山路正国」を討ち取る手柄を立てる。
そしてついに3000石の所領を与えられた。
秀吉の九州征伐で島津家が豊臣家の軍門に降り、肥後一国は「佐々成政」に与えられた。
その佐々成政は肥後一国を統治することができず、多くの国人が一揆をおこし秀吉から切腹を命じられその生涯を閉じる。
ここで清正は肥後北半国19万5千石を与えられついに城持ち大名となった。
秀吉の死後は豊臣家存続のため、徳川家康と秀吉の遺児秀頼の間を取り持つなど行ったが、ついに石田三成が徳川家康と一戦を交えることとになり全国の大名を巻き込んだ「関ヶ原の戦い」が勃発する。
清正は東軍(徳川家康)に与し、肥後の半国を治めていた西軍の小西行長の所領を与えられ肥後一国の国持ち大名となる。
その後も清正は精力的に豊臣家と徳川家の間を気にかけていたが病を発症し「大坂の陣」で豊臣家が滅亡する姿を見ることなく逝去した。
享年50歳。
なお、清正の跡を継いだ「加藤忠広」はあっけなく家康に改易されてしまった。
【熊本城・場所・アクセス】
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1−1
【熊本城地図】
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