■ 日本の歴史ブログ
伊達政宗:出生から家督相続 摺上原の戦いまで(前編)
伊達政宗は永禄10年8月(1567年)に出羽国米沢城内で伊達輝宗の嫡男として生まれた。幼名は梵天丸。
伊達家では元服する際に名前の諱(いなみ)を代々将軍足利家から拝領することとしていたが、政宗元服の際は将軍「足利義昭」が織田信長から追放されていた時期と重なったため拝領しなかった。
天正7年(1579年)には三春城の「田村清顕」の娘「愛姫」を正室として迎える。さらに、天正9年(1581年)4月には隣接する戦国大名「相馬氏」との合戦で初陣を飾り、戦国大名としての道を順調に歩むことになる。
天正12年(1584年)には、父であり伊達家当主の「伊達輝宗」が隠居し、家督は政宗が相続し、正式な伊達家第17代当主となる。その後、小浜城主「大内定綱」や二本松城主の「畠山義継」と交戦を続けながら領土の拡大を図っていく。
天正13年(1585年)政宗の侵攻に恐れをなした「二本松義継」は偽りの降伏をし、その挨拶と称して米沢へ訪れ、油断していた政宗の父・輝宗を人質に取って二本松へ連れ出そうとした。これを知った政宗は急遽その後を追いかけ、父・輝宗もろとも二本松義継ら二本松勢を皆殺しにした。
これに怒りを覚えた政宗は父の弔い合戦と称して、二本松城を包囲した。しかし、その救援に駆け付けた佐竹、二階堂、芦名、石川、岩城連合軍との合戦に破れてしまう。政宗、生涯で数少ない敗戦「人取り橋の戦い」である。
ところが、この敗戦から政宗の領地拡大の躍進が始まることになる。まず、二本松氏にはじっくりと圧力をかかて降伏させ、蘆名方の猪苗代氏に対しては寝返らせることに成功する。
十分英気を養い、しっかりと準備を整えた上で、政宗最大のライバル黒川城(会津)の「蘆名義広」を「摺上原の戦い」で破り、義広は実家の佐竹家へ逃げ帰った。続いて政宗は須賀川の二階堂氏をも滅ぼすことに成功する。
この蘆名氏の没落により奥羽の情勢は一気に政宗に傾き、白河、結城、石川、岩城などの諸氏も政宗のもとに降ることになる。一方、北部(宮城県・岩手県南部)で勢力を張っていた大崎氏、葛西氏も政宗の勢力下に加わり、伊達家は奥羽最大の大名となる。
このような情勢の中、中央では豊臣秀吉が北条攻めの準備にかかっており、全国各地に発行した「惣無事令(私戦禁止令)」の圧力も加わり、この波は政宗の足元にまで及ぶのである。
~ 中編に続く ~
■ 摺上原の戦いから関ヶ原の戦いまで(中編)
https://www.jp-history.info/blog/3190.html
※写真は仙台(青葉城)の伊達政宗像
【仙台城・場所・アクセス】
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区 天守台青葉城址
【仙台城地図】
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
おはようございます。
以前、金ヶ崎城の戦いなどの記事でコメントさせていただきました鷲谷です。
今回も摺上原の戦いについての記事を書くにあたって参考にさせていただきました。
http://washiya.sapolog.com/e488827.html
この戦いは伊達政宗の合戦そのもののうまさよりも、調略のうまさが際立っているのかなと思っています。
合戦の強さが取りざたされることも多い政宗ですが、この戦いでは後に発揮することになる外交力の芽も見られるのかな、個人的には思っていますw