- お城・城跡, 北海道・東北, 幕末・維新, 日本100名城
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【城名】
五稜郭
【五稜郭の説明】
北海道函館市にある五稜郭は日本初の西洋式陵堡である。江戸時代の幕末期に北方からの外国の脅威に対抗するため「武田斐三郎」の設計のもと築城された。函館五稜郭の特徴としては5つの星型の城郭で、それぞれ5つの先端には砲座が置かれ各方面への砲撃が可能であった。
幕末の動乱の中、幕府は函館奉行所に代官を赴任させていたが「徳川慶喜」が大政奉還を表明し政権を放棄すると新たに新政府軍より代官が配属された。その頃、各地の旧幕府軍は慶喜の大政奉還に不満を持ち、薩長が主力の新政府軍と会津・桑名・新選組などが主力の旧幕府軍によって「鳥羽伏見の戦い」が勃発し、旧幕府軍は敗退し大阪城へ退く。
大阪城で再起を図ろうとしていた矢先に肝心の「徳川慶喜」が江戸へ家臣団を置き去りにして逃亡してしまう。これにより西国での権威は失墜し、ついに旧幕府勢力の一掃を行うため各地への鎮撫使と掃討軍が編成された。江戸へ向けて進軍を開始した東山道軍・東海道軍は各地で旧幕府方の城を降伏・恭順させて吸収しながら江戸へ到着。ここに有名な西郷隆盛・勝海舟による江戸城無血に向けての会談が行われた。その結果江戸城総攻撃は中止となり江戸の町は戦火から逃れることが出来た。
一方、これに不服とする旧幕府軍の一部はそれぞれ江戸を脱出し房総方面や東北方面へと向かっていった。江戸に残っていた旧幕府軍の一部は上野に篭り「彰義隊」と称して新政府軍との軋轢を生んでいた。そしてついに「大村益次郎」の士気のもと上野戦争が勃発しわずか一日の戦闘で「彰義隊」は壊滅してしまう。
旧幕府軍海軍副総裁の「榎本武揚」も不満をもつ人物で、これら彰義隊の生き残りや不満をもつ幕臣達を船に乗せて一路仙台を目指した。各地で抵抗を見せていた旧幕府軍の残党も宇都宮の戦い、長岡城の戦い、そして会津若松での戦いに敗れ陸路仙台へと向かっていた。
ここに旧幕府海軍と陸軍の生きのこりが仙台へ集結し、榎本はかねてから構想のあった蝦夷地開拓の夢を実現すべく各軍艦に旧幕府兵を収容し一路蝦夷地(北海道函館)へと向かった。すでに蝦夷地を支配下に置いていた新政府軍と、いち早く新政府軍に恭順していた北海道唯一の藩「松前藩」は榎本艦隊を迎え撃つが、くしくも敗れて青森へと撤退していった。
こうして、榎本武揚は明治2年「蝦夷共和国」を建国。一時は諸外国もこれを独立国として認めていた。榎本率いる旧幕府軍はきたる新政府軍との戦いに備え、各砲台の整備や「四稜郭」の建設や海岸には弁天台場、松前守備隊、江差守備隊などを配しこれに備えた。
■ 四稜郭の詳細についてはこちらから
https://www.jp-history.info/castle/330.html
明治2年春、ついに津軽海峡を新政府軍が渡航し蝦夷地攻略に動き出した。初戦では善戦した榎本軍だったが軍艦を不運な形で失うなど制海権を奪われ、陸地でも圧倒的軍事力を誇る新政府軍に押しに押され、ついに五稜郭内にて降伏を決意する。いくつもの激戦の中を生き残り、五稜郭にまで戦いの場を求めてきていた「新選組」生き残りの「土方歳三」は、降伏しても厳しい処罰からは逃れられないことを悟り、自ら無謀とも言える突撃を行い見事に戦士している。
なお、函館奉行所の建物は当時としては高い建造物であり、それが函館湾からの艦砲射撃の標的となったようである。榎本武揚による旧幕臣やその家族を養うための蝦夷地開拓の夢はここに潰えたのであった。なお函館五稜郭は「日本100名城2番」に指定されている。
また、日本には函館五稜郭の他にもう一ヶ所五稜郭があり、「龍岡五稜郭」と呼ばれている。この五稜郭は信州佐久に存在する。
■ 龍岡五稜郭についての詳細はこちらから
https://www.jp-history.info/castle/378.html
■ 三稜郭跡:五稜郭と四稜郭だけじゃない!!三稜郭の存在が浮上(比遅里神社内)
https://www.jp-history.info/historic-sites-and-statue/6396.html
【函館五稜郭・場所・アクセス】
〒040-0001 北海道函館市五稜郭町
【函館五稜郭地図】
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