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戦に明け暮れた生涯 豊臣政権では三中老の一人 松江城主堀尾吉晴
堀尾吉晴は、安土桃山時代から江戸時代前期の戦国武将であり、大名となる人物である。豊臣政権時代には三中老の一人となる。ちなみに三中老とは五奉行と五大老との間を取り持つ中間的な役目であった。他に「生駒親正」「中村一氏」が任命されていた。
堀尾吉晴は天文13年(1544年)尾張国丹羽郡御供所村の豪族である堀尾泰晴の長男として生まれた。父は尾張国上四郡の守護代・岩倉織田氏の織田信安に仕えて重職にあり、山内盛豊(山内一豊の父)も同じ主家に仕えている。
【岩倉城跡地図】
当時、岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の織田信長に圧迫されており、吉晴は永禄2年(1559年)、初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため浪人となった。その後、尾張を統一した信長に仕えたが、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。
その後は秀吉に従って各地を転戦し、永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれている。天正元年(1573年)には、近江国長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、播磨国姫路において1,500石、後に丹波国黒江において3,500石に加増された。
天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将清水宗治の検死役を務める。この頃、明智光秀が織田信長に反旗を翻し主君を討ち取ると、その弔い合戦とも言える「山崎の戦い」で中村一氏とともに鉄砲頭として参加した。
天王山争奪戦の際には敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波国氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。その後も戦功を重ねて、天正11年(1583年)には若狭国高浜において1万7,000石となり大名に列する。翌天正12年(1584年)には、さらに2万石に加増された。
天正13年(1585年)佐々成政征伐にも従軍し、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられている。
天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、正五位下に叙任された。天正18年(1590年)の小田原征伐では秀次の下で山中城攻めに参加し、この戦の途中で嫡男「金助」が戦死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主12万石に封じられ、豊臣姓も許された。
この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座していない。秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に三中老に任命され、豊臣政権に参与した。
慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)10月、老齢を理由に家督を次男の忠氏に譲って隠居した。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
関ヶ原の戦いでは吉晴に代わって出陣した「忠氏」が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された。なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。しかし、慶長9年(1604年)忠氏が早世してしまう。家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた。
また同年、隣国伯耆国米子の中村家における御家騒動においては、中村一忠の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧している。慶長16年(1611年)、松江城を建造し本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年68。
まさに戦国時代にふさわしい戦に明け暮れた生涯であった。
なお、寛永10年(1633年)に吉晴の孫にあたる忠晴が死去した。忠晴には嗣子が無く堀尾氏は3代で改易となる。改易後、その一族が熊本藩や松江藩に仕えて家名を存続させた。
■ 五大老
徳川家康
前田利家
宇喜多秀家
上杉景勝
毛利輝元
■ 五奉行
浅野長政
石田三成
増田長盛
長束正家
前田玄以
■ 三中老
堀尾吉晴
生駒親正
中村一氏
【松江城・場所・アクセス】
〒690-0887 島根県松江市殿町1−5
【松江城地図】
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