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朝倉家の滅亡に続き小谷城も落城 浅井家3代にて滅亡 後編
天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍勢を率いて再び北近江に攻め寄せた。長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は2万の軍勢で駆けつける。しかし織田の軍勢が北近江の城や拠点を次々に落とし、朝倉勢は完全に浮足だちやむなく越前に撤退を始めた。
信長は、撤退する朝倉軍を猛追して朝倉家を滅亡させた(一乗谷城の戦い)。朝倉義景は一族の景鏡の裏切りによって自刃する。
朝倉家を滅ぼした後、信長は全軍を浅井家に向けた。もはや浅井家には単独で信長に対抗する力はなく、一方的に勢力を削られるのみであった。そして、ついに本拠の小谷城が織田軍に囲まれ長政は父・久政と共に籠城する。
信長は家臣の「不破光治」や「羽柴秀吉」を使者として降伏を勧めたが、長政は断り続け最終勧告も決裂に終わった。それでも信長の妹のお市と、その子(茶々・初・お江)は道連れにすることなく信長陣営まで送り届けた。
お市が信長の陣営に向かう際、浅井・織田軍共に一切攻撃をしなかったと言われている。同年8月27日(旧暦)いよいよ織田軍の攻勢が激しくなり、父の久政が自害する。翌28日には長政が小谷城内赤尾屋敷にて自害しここに浅井家は滅亡する。
織田信長と父・久政に翻弄された戦国大名「浅井長政」享年29。浅井家は3代にわたり北近江に覇を唱えたが信長の前に終焉を迎えたのであった。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。
【小谷城・場所・アクセス】
〒529-0313 滋賀県長浜市湖北町伊部
【小谷城地図】
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