■ 日本の歴史 信長公記:桶狭間の戦い(後編)
織田信長の家臣「太田牛一」が書き残した「信長公記」の桶狭間の戦いの行(くだり)後編をご紹介いたします。
全軍は義元本陣めがけ黒い玉となって駆け出した。この様子を目にした今川勢は、ひとたまりもなく崩れたった。弓も槍も鉄砲も打ち捨てられて、旗や指物が散乱した。義元の御輿まで置き去られてしまった。ちょうど未刻(午後二時頃)のことであった。
この混乱の中で今川義元は三百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数回にわたって攻撃を受けるうちに五十騎ほどにまで減ってしまった。
信長公も馬を下り、旗本に混じってみずから槍を使い、敵を突き伏せた。周りの者達も負けじと勇戦し、しのぎを削り鍔(つば)を砕いて激戦を展開した。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が続出した。
そのうちに「服部小平太」が今川義元に肉薄し、義元は佩刀を抜いて小平太の膝を払い、これを凌いだ。しかし、その横合いから今度は「毛利新介」が突進してきた。義元も今度は防ぐことが出来ず、毛利新介の槍に突き伏せられてついに首を討たれた。
毛利は先年武衛様(斯波義銀)が遭難された折、その弟君を救った者である。人々は後に、その冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうと噂した。戦は掃討戦に移った。
桶狭間は谷が入り組み、谷底には深田が作られているので、難所であり、逃げまどう今川勢は田に踏み込んでは足をとられ、織田勢に追いつかれて首を挙げられた。
信長公の元には首を得た者達が続々と首実検におとずれた。信長公は首実検は清洲城にて行うと申し渡し、義元の首のみを見て、もと来た道をたどって帰陣した。晴れやかな表情であった。
(出典:信長公記)
※写真は織田信長の居城「清洲城」天守閣からの景色です。信長もここから桶狭間方面や美濃方面を眺めていたのでしょうか。
清洲城:愛知県清須市朝日1−1
【清洲城地図】
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