■ 日本の歴史 信長公記:桶狭間の戦い(徳川家康 “松平元康” の動向)
桶狭間の戦いの時、徳川家康(当時は松平元康)は今川義元の軍に属していた。義元は永禄元年(1558年)に嫡男・氏真に家督を譲渡、自らは新たに支配下に置いた三河の統治と尾張の攻略に専念していた。
しかし尾張侵攻の拠点である鳴海城・大高城を織田方が包囲、その救援のため、徳川家康(当時は松平元康)以下の岡崎衆を先陣とする大軍を催して尾張へ侵攻した。ところが、今川義元は桶狭間の戦いで信長に討たれてしまった。
以下「信長公記」より
徳川家康は桶狭間の戦いの後、岡崎城に入っていた。信長公は義元の死に乗じて三河に進攻し、梅坪城を攻めた。戦ははじめ激しい弓戦になり、その後城兵が打って出て激しい白兵戦となった。
この戦で前野長兵衛が討死した。また平井久右衛門という者はその強弓を敵味方から賞賛され、信長公から褒美を与えられた。信長公はさらに伊保城・八草城へも押し寄せて田畑薙ぎを行った。
このように織田信長と徳川家康との同盟は、桶狭間の戦い後すぐに結ばれたわけではないということが書かれている。
(出典:信長公記)
※写真は桶狭間の戦い当時、「徳川家康」が居城としていた岡崎城です。(愛知県岡崎市康生町)
【岡崎城地図】
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